116,800円。これは2018年に私が購入した棚橋弘至というプロレスラーのグッズの総額。
記憶にある所だけを思い出しながら計算したので実際はもっと使っている可能性が高い。
プロレスの観戦にかかるチケットの値段は平均して8,000円くらいなのだが、2018年は新日本プロレスを15回程度観戦しに行った。平均観戦料で換算すると総額120,000円。
プロレスの観戦料の総額と同等程度の金額を棚橋弘至個人に使用してしまう程、棚橋弘至個人に心を奪われてしまっている。“金額=愛”というわけではないが興味の無いものにお金は払えないしそれだけ自分自身が欲しているという現れ。
ここ数年で新日本プロレスは人気を回復し過去最高の売上、利益を計上するまでに業績も回復。新規のファン層も女性を中心に家族連れや若い人たちにも波及しその勢いはとどまる事を知らない。
私が新日本と出会ったのは2003年。当時はK-1やPRIDEなどの格闘技ブームに押され人気は低下の一途を辿っていた頃だった。いわゆる暗黒時代とも表現される時代だ。
その時代になぜかプロレスのファンになってしまった私からすると今の人気やファンの熱量はとても想像つかなかったし、盛り上がっている様を目の当たりにすると非常に嬉しい気持ちになる。
まさにV字回復ともいえる復活を遂げた新日本プロレスだが、一体その立役者は誰か。
そう。何を隠そう。間違いなく、棚橋弘至だ。2019年10月10日 棚橋弘至はプロレスラーとしてデビュー20周年を迎えた。
今年で43歳。ベテランレスラーとなった棚橋弘至。
その物語を語る上で欠かす事のできない登場人物を紹介したくなったので私は今、台風19号の大雨と強風に怯えながらも筆を走らせている。この文を書くことで気を紛らわすことができる。
プロレスファンとなって16年。どうもビッグデータメディアで競馬予想系ライターをしているHONSHIと申します。
HONSHIはホンシと読みます。
「あの腹筋割れているカッコいいレスラー誰だ!?」と棚橋弘至のファンになって16年。ここではそんな私が選ぶ棚橋弘至のライバル10名をランキング形式でお伝えする。
これを読み終えた時、あなたはきっと、もっと棚橋弘至を知りたくなっているはずだ。
それでは10位から発表していこう。
ミスターパッション
第10位:鈴木健三
■ストーリー
2000年にデビューした鈴木健三は2001年に棚橋弘至と共にタッグチーム「キングオブザヒルズ」を結成。棚橋と健三のタッグであることから通称タナケンとも称される。その後、佐々木健介らを加えたスウィングロウズを結成。その後まもなくして2003年に新日本プロレスを退団してしまう。(私自身鈴木健三という選手は他団体の選手であるという認識でプロレスファンになっていた記憶がある。)
新日本プロレス時代の期間が短い為あまりお伝えできるエピソードは無いが、簡潔にお伝えすると棚橋弘至が初めてタッグチームを結成したときの相棒である。そう認識して頂ければ十分である。
プロレスファンの間では語り草になっている「猪木問答」という名場面がある。
武藤敬司、小島聡、ケンドーカシンら中心選手が会社フロント陣と共に一斉にライバル団体へ移籍。そのゴタゴタに対して「どう思っているんだ、何かに怒っているか!?」という問いかけをリング上で選手一人一人にアントニオ猪木が質問をするというシチュエーションが発生した。
“お前は怒っているか!?”という猪木の問いかけに対し鈴木は「僕は自分の明るい未来が見えません…」と大勢のファンが見ているリング上でまさかの超弱気発言で未来への不安を吐露。その回答に対し猪木は「見つけろてめぇで!」と自ら質問していながら何故か鈴木を突き放す。
次にマイクが回ってきた棚橋弘至は「俺は、新日本のリングで、プロレスをやります!!」と力強く回答。(この辺りのから既にこの2人のこれからのレスラー人生は違う歩みを進めていたのかも知れない。)
新日本プロレスを退団した鈴木はその後、WJ→WWE→ハッスル→CMLL→AAA→全日本プロレスと渡り歩き現在はフリーの選手として活躍している。
「ビチっと!」が口癖。性格は「空気が読めない」キャラクター。入場時や勝利時は両手を大きく横に広げるポーズ(通称エル・アギラ・インペリアル)をする。4コーナー全てで行うので入退場時間にとても時間がかかる。
2011年、退団後久しぶりに棚橋とタッグマッチで対峙した鈴木と棚橋。
試合は棚橋がハイフライフローで鈴木から勝利を収めている。
■選考理由
若い選手のタッグチーム、しかも男前という最高のオマケつき。
現在も数多くの女性ファンを魅了し続けている棚橋のスタートは若手時代も同じスタンス。
そのスタンスで最初の相棒なのだからランク外にするわけにはいかなかった。
正直タッグを組んでいた期間も短いし新日本プロレス在籍期間も短いので最近のファンの方からしたら「?」なチョイスかも知れないがそこはお許し頂きたい。
この後登場するライバルたちとは少し選考理由に違いがあるが紛れもなく棚橋弘至を語る上では欠かす事が出来ない存在に間違いない。
棚橋弘至デビュー20周年を迎えた今だからこそ、2人の絡みを見てみたい気持ちが非常に高まっている。
ゴールデンスター
第9位:飯伏幸太
■ストーリー
ハイレベルなアクロバティック技を駆使し端正な顔立ちで女性ファンも多い飯伏幸太。
そんな飯伏にはプロレス界に彼自身にとっての神と呼べる存在が2人いるのだという。
実はその一人が棚橋弘至なのだ。
プロレスに対する姿勢、そしてその存在感、棚橋弘至の全てが飯伏にとっては神の様な存在なのだという。
DDTプロレスリングという別団体の所属選手だった飯伏幸太は新日本プロレスにも定期的に参戦し当時はジュニアヘビー級(軽量級)の選手として熱戦を繰り広げていた。
2013年から新日本プロレスとの同時契約選手として活動を開始。この頃からヘビー級の選手とも度々試合を行うようになり、IWGP Jrヘビー級王者、IWGP Jrタッグ王者、BEST OF THE SUPER Jr優勝などジュニアヘビー級のタイトルを総なめにした飯伏はその後ヘビー級を主戦場とする。
そして2015年に開催されたG1クライマックス公式戦で棚橋と初対決。
試合は棚橋の必殺技ハイフライフローに敗れる。
その後一度新日本プロレスを退団してしまう飯伏だが2年後のG1クライマックスにサプライズ参戦。
当時のIWGPインターコンチネンタル王者であった棚橋を”人でなしニー”と呼ばれていた相手の両腕をロックした状態で顔面目掛けて放つ膝蹴りで勝利。
神と崇める棚橋を破った技という事でその膝蹴りを「カミゴェ」と命名した。
翌2018年のG1クライマックスの決勝戦で再び棚橋の前に姿を現したのがこの飯伏幸太。
平成最後として多くの注目を集めた2018年のG1クライマックス。
試合は棚橋が必殺のハイフライフローで勝利し平成最後のG1クライマックスは棚橋が優勝、準優勝飯伏という結末になった。
そして2019年、令和初のG1クライマックスは飯伏が初優勝を果たしている。
当然、決勝戦で勝ちを手繰り寄せたフィニッシュホールドはカミゴェである。
■選考理由
他団体の選手、元々軽量級の選手、という事で棚橋弘至とリング上で交わるまでには初参戦からかなりの時間が経ってからになる。しかし交わってからは一気にこの2人のストーリーは加速していった。
飯伏との対戦は棚橋弘至というレスラーの器と引き出しの多さを感じさせられる対戦カードであり、相手の技を受けることが身上である棚橋のファイトスタイルと徹底的に相手を叩き潰す飯伏のファイトスタイルは非常にシンクロし観ているファンの視線を釘付けにしてしまう。
初対決となった2015年のG1クライマックス公式戦は筆者的にはかなり名勝負レベル高めの1戦。
棚橋信者である立場は飯伏の棚橋信仰にも負けていない自負がある筆者だが、そのリスペクトの姿勢はとても好感が持て今となっては筆者も飯伏幸太のファンである。
身体能力の高さ、受け身のセンス、本格的な打撃、言う事なしの選手なので世界中からオファーがある飯伏だが、一度退団した新日本プロレスに再度復帰を果たし所属選手として契約している。
今後の新日本プロレスを支える1人として9位にランクインさせてもらった次第だ。
制御不能のカリスマ
第8位:内藤哲也
■ストーリー
1999年10月10日、時の内藤少年が後楽園ホールにプロレスを観に行った日にデビューした選手がいた。そう。棚橋弘至だ。そして内藤少年は棚橋弘至に憧れていった。
憧れの存在だった棚橋弘至を超える様なプロレスラーになりたいという志を胸に内藤哲也は新日本プロレスに入団。
棚橋が初めてIWGPヘビー級王者になったのは29歳の時。内藤自身も「20代でIWGP王者になる」という目標を掲げヘビー級戦線へ名乗りを上げていく。
そして2011年10月10日。12年前、内藤少年が後楽園ホールで棚橋弘至のデビュー戦を観戦した時と同じ日。時のIWGP王者棚橋に内藤は初のタイトルマッチを挑む。
しかしその壁は厚く棚橋の必殺技ハイフライフローに敗れ、試合後、内藤は涙を流すのであった。
棚橋という選手は変革者であった。既存の物を新しいものに変えていこうとする姿勢が強かった。そんな棚橋にファンはアレルギーを示し、ヒール(悪者)でもないのに大量のブーイングが浴びせられた。
同じく内藤もヒールではないのにも関わらずファンからブーイングを浴びせられる選手だった。
ファンは内藤の何が気に入らないのか?試合スタイル?技?コスチューム?髪型?
内藤自身にも訳が分からない日々が続いた。止まないファンからのブーイングについに内藤は行動に出る。
2015年メキシコ遠征から帰国した内藤哲也は別人のようになっていた。
ファンを大切にし、ファンサービスを積極的にする明るいキャラクターだった内藤が突如として太々しい態度からの遅延行為や反則技。時に対戦相手に生唾を吐く様な傍若無人ぶりを見せる様になる。
突き抜けた瞬間だった。ファンに媚びず自分のやり方を貫く。
そしてファンはそんな内藤を支持していった。それは完全なる手のひら返し。
そしてこの年のG1クライマックス公式戦で棚橋と対戦した際に新必殺技デスティーノを披露し棚橋を撃破した。勢いそのままにオカダカズチカを破り悲願のIWGPヘビー級王座獲得。
その後IWGPヘビー級王座からは陥落するものの、IWGPインターコンチネンタル王者となり2017年東京ドーム大会で棚橋を挑戦者として迎え撃つ。数年前は内藤が挑戦者だったがこの日の挑戦者は棚橋。
デスティーノで再び棚橋を下した内藤はここで”棚橋越え”を果たすのであった。
■選考理由
棚橋に憧れ、デビュー戦と同じ日に初めてIWGPに挑戦し、棚橋と同じく”悪くないのに”ブーイングを浴びる。棚橋と共通点が多い内藤哲也という選手。
ケガで戦線離脱した時期があったがケガの箇所も棚橋も古傷としている同じく膝だったりもする。
IWGPインターコンチネンタル王座のベルトを破壊するというとんでもない行動に出た時もあったが、あの時は完全に棚橋を挑発しているなと筆者は真っ先に感じた。
スポーツ雑誌Numberで行われたプロレス総選挙で棚橋と1位を争い世間でも話題をさらったことは記憶に新しい。
飯伏幸太と同級生という事もあって飯伏に対するライバル意識も高い。
今は太々しい態度や言動が目立つ内藤だが実は新日本プロレスの事を常に考えており、その熱い新日本魂は棚橋も認める程である。
暴走キングコング
第7位:真壁刀義
■ストーリー
1999年10月10日後楽園ホールで棚橋弘至のデビュー戦の対戦相手であり、今も共に新日本プロレスを支え続ける存在である真壁刀義。
しかしそのレスラー人生は順風満帆なものではなかった。
先輩からの理不尽、後輩の出世、会社からも期待されない。
「辞めさせるための練習」と表現されるほどの厳しいシゴキに合っていた真壁は、デビュー後直ぐに脚光を浴びていた棚橋とは正反対にスポットライトを浴びない日々を長く過ごしていた。
その後、荒地プエルトリコに海外武者修行に送り出され、当時の事を真壁自身は左遷と表現している。
帰国後の真壁は選手としての登録名を変更(伸也→刀義)するとともに、リング上でのファイトスタイルも一変させ実力行使に出る。
首にチェーンを巻き傍若無人にやりたい放題。
悪の全てをやりつくすGBHというヒールユニットを結成しIWGPタッグベルトを奪取。
その勢力をどんどん広げていき悪の象徴として確固たる地位を築く。
しかし2009年にGBHのメンバーに裏切られ本隊と共闘することによりベビーターン。
2009年のG1クライマックスではGBH裏切り事件の仕掛人であった中邑真輔を相手に決勝戦を制し初優勝を果たす。翌年2010年には因縁の中邑を倒しIWGPヘビー級のタイトルも獲得。
その後はベビーフェイスとして新日本プロレスの門番的な立ち位置で外敵との対抗戦や、若手選手の壁として立ちはだかる。
新日本プロレスが低迷し経営の危機に陥った際、精力的にプロモーションに励み、2012年には日本テレビの情報番組「スッキリ!!」にてスイーツ担当レポーターとして出演。
首にチェーンを巻いた強面なプロレスラーが可愛らしいスイーツを美味しそうに食べる。
なおかつ的確な食レポをお茶の間にお届けするギャップの塊的存在は一度見たら忘れない強烈な印象を与え、“スイーツ真壁”という愛称で真壁の存在は世間に広く浸透していった。
2017年にはなんとNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」に出演を果たしている。
■選考理由
「徹子の部屋」に棚橋弘至と出演したり、ドラえもんの映画主題歌を棚橋弘至とともに歌ったり、芸能活動というフィールドでの棚橋弘至のライバルは間違いなく真壁刀義一択だろう。
今では明るく楽しいレスラーの印象だが長く日の目を浴びない時を過ごしていた真壁。
しかし腐ることなくずっと新日本プロレスの事を支え続けてきた真壁刀義が棚橋弘至のデビュー戦の相手というのは、棚橋信者の私としては非常に意味のある事。
必ず浮上する時が訪れると他の選手を鼓舞し続け積極的にプロモーションに励み、リング内外の活動で棚橋と共に新日本プロレスを支え続けてきた。その姿勢は棚橋弘至もリスペクト。
デビュー戦の対戦相手というだけでも選考理由には十分ではあるがやはり新日本プロレスを支えてくれている功労者という意味でも筆者は非常に思い入れのある選手である。
荒武者
第6位:後藤洋央紀
■ストーリー
海外遠征から帰国してここまで印象が変わった選手というのは他にいただろうか。
それまで軽量級のジュニアヘビー級で活躍していた爽やかな若手選手がおよそ1年間の武者修行を経て身体つきも、技も、立ち振る舞いも、何もかも大きな変貌を遂げ、その姿はまさに侍。
黒の長髪に武骨なファイトスタイル。袴や、甲冑の様なコスチュームを身に纏い荒々しいファイトスタイルで相手選手を追い込むその姿はまさに荒武者。
そんな後藤だが海外武者修行から帰国して荒武者へと変身を果たしたその当時、新日本プロレスに気に入らない存在が一人いた。
その男は茶髪、金髪、エクステ。派手な入場コスチュームを身に纏い、試合の後ではリングの上で愛を叫び、多くの女性ファンの支持を集め、これまでにない新しい風を新日本プロレスに吹かせようとしていた。
新日本プロレスそのものを表現する「ストロングスタイル」という概念自体も疑問を呈するその男を後藤は痛烈に批判した。
そう。その男とは紛れもない…棚橋弘至だ。
寡黙で多くを語らず試合でその存在を証明し先輩レスラーをなぎ倒していった後藤が次に照準を当てたのは、時のIWGPヘビー級王者棚橋弘至。
2007年11月11日両国国技館。後藤がIWGPヘビー級王座に初挑戦。
王者棚橋の事を「チャラ男」と表現し、試合中も徹底した首攻撃を敢行。
棚橋をあと一歩のところまで追い込んだ。
しかし棚橋も「チャラ男」と揶揄された挙句にベルトまで失うわけにはいかない。
渾身のテキサスクローバーホールドでギブアップを奪うのだった。
それ以降の後藤は2008年に世界のグレートムタとシングルマッチで対戦するなどメキメキとその存在感を放ち続け、同年のG1クライマックスを初出場で初優勝を果たし、2009年に行われた春の祭典ニュージャパンカップも優勝。新日本プロレスの祭典を夏春連覇を成し遂げる。
翌2010年のニュージャパンカップも制し春の最強戦士決定戦を史上初の連覇達成。
2012年に3度目のニュージャパンカップ制覇を果たすとカールアンダーソンとのタッグでワールドタッグリーグも制覇。翌2013年には高校時代の同級生でもある柴田勝頼と抗争が激化。同年試合中の怪我であごの骨を骨折し、復帰戦の相手に柴田を指名。
2014年の東京ドーム大会で柴田を相手に復帰を果たすと同年に開催されたワールドタッグリーグではその柴田とタッグを結成し優勝。2015年の東京ドーム大会で柴田とのタッグでIWGPタッグのベルトを奪取し王座に君臨した。
2000年代後半と2010年代前半は常に新日本プロレスの中心として戦いの範囲を広げていった。
しかしオカダカズチカ、内藤哲也、飯伏幸太らの後輩たちが頭角を現し始めた2010年代後半は苦戦が続き未だに新日本プロレス最強の証であるIWGPヘビー級のベルト獲得には至っていない。
多彩な技と武骨なファイトスタイルから繰り出される豪快な技、筋骨隆々な肉体で常にあと一歩のところまで行くがその一歩が遠い選手。
年齢も40代になる今日この頃、荒武者の覚醒が待ち遠しい…。
■選考理由
棚橋弘至というレスラーと真逆の立ち位置にいるレスラーが後藤洋央紀というレスラーではないかと筆者は感じている。同じ長髪で時には二人とも揃ってツーブロックの時期もあった。
技の種類が少なくテクニックで相手を追い込む棚橋と、多くのオリジナル技を駆使して豪快に闘う後藤。
口が達者な棚橋と、口下手な後藤。
多くの女性に指示される棚橋と、男性ファンが多い後藤。
常に孤独でタッグ戦線ではいまいち実績の薄い棚橋と、過去に何度もタッグ戦線で中心にいた後藤。
IWGPヘビー級王座の戴冠記録をもつ棚橋と、過去に一度もIWGPヘビーのベルトを巻いたことがない後藤。
そんな正反対に思える2人だがしっかりとライバルとして相応しいエピソードは存在する。
前述の2007年11月11日両国国技館で行われたIWGPヘビー級選手権試合は、「低迷していた当時の新日本プロレスが反撃の狼煙をあげた試合」と語るほど棚橋弘至自身にとっても強く思い入れのある試合で、棚橋ファンの間では必ずと言っていいほどランクインするベストバウト。
「勢いが大事なんだよ!」と棚橋に押し切られタッグを結成したりもした。
2013年のG1クライマックスで長期欠場を余儀なくされた後藤に張り手をお見舞いし顎の骨を折ったのは棚橋。
以降も幾度となく棚橋と後藤は激闘を繰り広げており未だに2人の試合は多くの観衆を興奮させる鉄板カード。正反対な2人だからこそ重なった時の化学反応は強烈で、時に激しくぶつかり合い、時になぜか組んでしまう。
同じ時代に棚橋弘至と共に新日本プロレスを盛り上げたライバルとしてその名を刻むのは当然だと筆者は考える。
ザ・フェノメナール
第5位:AJスタイルズ
■ストーリー
アメリカWCWでそのキャリアをスタートさせたAJスタイルズ(AJスタイルズという名前の選手)。その後、別団体のTNAで数々の激戦を繰り広げ多くのタイトルも獲得。
2010年にオリンピックのレスリング金メダリストで世界のスーパースターだったカートアングルに勝利しその名は世界中に轟くことになる。
新日本プロレスへの初参戦はその2年前で2008年1月。その際はスポット参戦だったが、2013年にTNAを退団しフリーとなったAJは翌年新日本プロレスへ本格参戦を果たす。
2014年4月に行われた両国国技館大会にてタッグマッチで対戦したオカダとファレが試合後リング上で激しく睨み合う最中に突如乱入。オカダを背後から襲撃し、必殺のスタイルズクラッシュ敢行。IWGPヘビー級王座への挑戦を表明。そしてBULLET CLUBへ加入。
翌月に行われたIWGPヘビー級選手権で王座を保持するオカダを追い詰めスタイルズクラッシュを放ち勝利しベルトを奪取。
外国人レスラーでは9年ぶりのIWGPヘビー級王者が誕生した。
そんなAJからIWGP王者の座を奪った男が棚橋弘至。同年10月の両国国技館大会でAJは棚橋に敗北し王座陥落。
しかし翌2015年1月の東京ドーム大会で内藤哲也を雪崩式スタイルズクラッシュで撃破し、その勢いのまま棚橋へ挑戦表明。
2月に行われたIWGPヘビー級選手権で試合中のアクシデントで大量の血を流す棚橋を追い込みそのままベルト奪取。2度目のIWGP戴冠を果たす。
同年に開催された夏の祭典G1クライマックスにおいて決勝戦進出をかけて再び棚橋と激突。
棚橋がAJの必殺技スタイルズクラッシュを繰り出すと、負けじとAJも棚橋の必殺技ハイフライフローを披露するなど一進一退の攻防が続く。
死闘の末に紙一重で棚橋が勝利し決勝戦進出を果たす。
2016年1月の東京ドーム大会で中邑真輔が保持するIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦し、中邑真輔とも初のシングルマッチを迎える。試合は惜しくも敗れたが世界中が注目する試合となった。
翌日の後楽園ホール大会で事件は起きた。
BULLET CLUBのメンバーとしてタッグを組んでいたケニーオメガに試合後裏切られBULLET CLUBを追放されてしまう。そして突如として新日本プロレスから姿を消してしまったのであった。
その後は世界最大のプロレス団体WWEに主戦場を移し現在も中心選手として活躍中であり、新日本プロレスに参戦していた期間のおよそ1年半はあっけなく終焉を迎えたのだった。
■選考理由
その姿を初めて見た時は「ハリウッドスター!?」と思うほどイケメンで驚いた。
トム・クルーズに似た端正な顔立ちは間違いなく本物のイケメン。
スタイルズクラッシュ、フェノメナールフォアアーム、フェノメノンDDT、躍動感溢れる動きから繰り出される多彩なオリジナル技の数々は日本の玄人のファンを一発で唸らせるほど。
兎にも角にもこのレスラーの事を一言で表すと「センスが良い」に尽きる。
そのカリスマ性の高さから世界中のプロレスファンから支持を集めるのがAJスタイルズ。
新日本プロレスに本格参戦を果たしたのは2014年4月~2016年1月までと約1年半。
それだけ短い期間であるにも関わらず未だに筆者同様AJファンは新日本プロレスに多く存在している。
棚橋もAJの凄さは認めていてオリジナリティ溢れる選手で天才であると高く評価している。
2013年のG1クライマックスで棚橋は突如としてAJの必殺技であるスタイルズクラッシュを拝借し、以降幾度となく使用していた。(まさかその一年後にご本人登場という結末が待っていようとは露知らず。)
参戦期間も短く対戦歴も非常に少ない両者だが棚橋信者として棚橋弘至を語る上では欠かせない存在で、2015年のG1クライマックス公式戦はその大会でベストバウト級の試合だったし今でも当時の興奮は鮮明に記憶している。
新日本プロレスを離れてから既に3年以上が経過しここ数年で爆発的に増えた新日本プロレスファンの中にはAJの存在を知らない人も多くいる事だろう。
だからこそわずか1年半という短い期間で多くの人の記憶にその名を刻んだAJスタイルズという存在は、棚橋弘至のライバルとしてどうしても名を連ねたかった。
「なぜ内藤や飯伏が順位が下なんだ!!」とお叱りを受けそうだがここは筆者の我儘として許してほしい。
そしてAJスタイルズを知らない皆様には是非ともその存在を知って頂き共感してもらいたい一心である。
ブルージャスティス
第4位:永田裕志
■ストーリー
第三世代と呼ばれているレスラーたちがいる。天山広吉、中西学、小島聡、そして永田裕志。
新日本プロレスが「氷河期」「暗黒時代」と表現されている時期に中心選手として活躍していた世代の選手たちだ。
棚橋弘至とのキャリアの差は7年で年齢は8個年上の永田。
棚橋をタッグパートナーとして2002年にプロレスリングNOHAのGHCタッグベルトを永田・棚橋組が小橋・本多組から奪取した事もある。
当時の棚橋がU-30(30歳以下の選手たちで争う王座)の王者として若手の先頭として君臨していた時、永田裕志はIWGPヘビー級王座を獲得しその後10度にわたる防衛ロードを築き、当時橋本真也が記録していた連続防衛記録9を更新。
永田は新日本プロレスの「エース」「ミスターIWGP」と呼ばれていた。
2003年5月に11度目の防衛に失敗し王座を失ってからは総合格闘技への挑戦、ヒールターン、全日本プロレスへの参戦など様々な活躍を経て2007年に再びIWGP戦線へと舵を切る。
同年春に行われたニュージャパンカップを優勝した永田は時のIWGP王者、棚橋弘至へ挑戦表明する。4月に大阪で行われたタイトルマッチにて棚橋をバックドロップホールドで破り第46代IWGPヘビー級王者に君臨。新日本プロレスのメインストリームに返り咲く。
しかし8月に開催されたG1クライマックスで初優勝を果たした棚橋からの挑戦を受ける形で10月の両国国技館大会で再戦。棚橋の必殺ハイフライフローに沈みIWGPヘビー級王座から陥落する。
その後は暫くIWGPヘビー級戦線からは退き、他団体への参戦やユニットの結成、後進の育成などに尽力する。
時は流れ2011年、再びニュージャパンカップで優勝を果たした永田は久しぶりのIWGPヘビー級への挑戦を表明。そして迎え撃つ王者はまたしても棚橋弘至だった。
2011年3月に発生した東日本大震災の影響で自粛ムードが漂う中、4月3日に後楽園ホールでタイトルマッチを敢行。場内はスクリーンが設置されず、照明設備も必要最低限の準備で節電状態で開催された。
かえって観衆がリング上での闘いに集中できる独特な雰囲気が形成された特異な試合となった。
試合はハイフライフローを炸裂させた棚橋が勝利し2度目の防衛に成功し、永田の挑戦は失敗に終わる。
同年の棚橋はその後、IWGPヘビー級選手権試合で防衛を積み重ねていった。
5月中邑戦(V3)、チャーリーハース戦(V4)、6月後藤戦(V5)、7月バーナード戦(V6)、9月中邑戦(V7)、10月内藤戦(V8)、11月矢野戦(V9)…永田の保持する連続防衛記録10まであと1つと迫る棚橋に永田がそれを黙ってみているはずがなかった。
自身の記録を抜かせんと立ちはだかる永田裕志と新たな時代を切り開くべく邁進する棚橋弘至は2011年12月、その年2度目となるIWGPヘビー級タイトルマッチで激突。
30分を超える壮絶な死闘となった。先輩としての意地、ミスターIWGPと呼ばれた男としての意地、暗黒時代と呼ばれた新日本のリングを支えてきた意地、その全てを王者棚橋にぶつけていった。
30分16秒、棚橋のハイフライフローが永田に炸裂。凱歌は棚橋に上がった。
■選考理由
先輩として幾度となく棚橋の前に立ちはだかり、高い壁として君臨した永田裕志。
棚橋自身が「永田さんは苦手」というように棚橋VS永田の対戦カードは棚橋ファンからするとヒヤヒヤする顔合わせだった。
強烈な蹴り、相手を絞り上げるナガタロック各種、そして試合を決めてしまう豪快な投げ技、そのどれもが棚橋を追い込んでいった。
2011年に棚橋が防衛ロードを築き永田の記録に迫る中、10度目の防衛戦に永田が挑戦表明してきたときは「やっぱり、きたな」と筆者は思った。
暗黒時代と表現される苦しかった時代に新日本プロレスを支えてきた功労者の一人であることは間違いなく、新日本プロレスからファンを奪っていった総合格闘技のリングに上がり格闘技界最強と称されていたエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦したり、他団体から新日本プロレスのリングに上がる外敵たちとも先頭に立って対戦したりと、厳しい状況にある新日本プロレスを闘いのフィールドで守り続けた男である。
時を経て新日本プロレスのエースの称号は棚橋の物となっていったがその生き様は新日本プロレスのエースと呼ぶに相応しいものであったと筆者は感じている。
共に団体を支え続けてきた選手であり、棚橋にとって偉大な先輩でありライバルであることは紛れもない事実。
50歳を過ぎた今もなお年齢を感じさせない試合内容でその健在っぷりを示している永田裕志。
2020年も変わらぬ活躍を期待している。
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